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ガッツリパラレル。というかもうオリジナルだよ。R18

 六月に入って気候は一気に夏へと向かい始めた。高塀が立ち並ぶ街の路地の石畳から打ち水がゆらゆらと立ち上っている。
 火村は日陰を選びながら早足で祖父の家へと向かっていた。既に約束の時間から三十分も遅れてしまっている。七年前に来たときはまだ十歳だったためかなり記憶があやふやで、見覚えのある道に出るまでずいぶんと遠回りしてしまった。ちらりと手元の時計に目をやってから十字路を通り過ぎようとしたとき、突然真っ黒な猫が飛び出してきた。
 火村が立ち止まると、黒猫はGパンに天鵞絨の身体を摺り寄せてくる。火村がしゃがみこんで背中を撫でてやると、喉を鳴らして近くの家の石段に飛び乗った。火村は黒猫の隣に腰を下ろした。陽の当たらない石の階段はなんとなく湿っている。
 ポケットから煙草を出して慣れた手つきで火を点ける。癖のある香りの淡い煙が辺りを漂う。再び時計を見て、煙を吐き出して呟く。
「十一時半か……」
 その言葉に答えるかのように黒猫が小さく鳴いた。おそらくどこかの家の飼い猫だろう。首輪はしていないが毛並みがいいし、人にも慣れている。火村がその艶やかな背中に触れると美しい毛並みがさわさわと震えた。右は黄金、左は緑という不思議な瞳が夏の強い光のせいで細くなっていた。
 火村は五分ほど休憩してから立ち上がった。祖父の家にはこの先の坂を登っていかなければならない。火村に身体を寄せて目を閉じていた黒猫も、起き上がって大きく伸びをした。
 火村が祖父の家につくまで、その黒猫は絡みつくように火村の側にいたが、火村が祖父の家の門を潜ると入り口で激しく鳴き声をあげた。火村は黒猫の頭を軽く撫でてやった。
「もうお帰り。随分と遠くまで来てしまった。帰れなくなるぞ」
 しかし猫はまだ火村から離れようとしない。甘えるように声をあげて、火村に寄ってくる。
「帰れッたら」
 火村が少々きつく言うと黒猫は少し後ずさり、いきなり火村の手に爪を立てた。
「っつ……」
 咄嗟に手を引いたが、黒猫の鋭い爪は火村の手首を真横に引き裂いていた。思いの外傷が深く、唇を傷口に当てたが血は止まらない。ハンカチで手首を押さえて顔を上げると既に黒猫の姿は消えていた。
「英生さん?」
 突然名前を呼ばれて振り返ると、祖母が玄関から顔を出していた。
「お久しぶりです」
 火村は玄関の前に行くと深々と頭を下げた。
「あらあら、大きくなられましたのね。すっかりとまあ、大人になられはって」
 会う度に聞かされる言葉に曖昧な返事をしながら、義母に持たされた手土産を渡した。
「あら、英生さん。どうなさりはったん?」
 傷に気付いた祖母が大袈裟に声をあげた。手首の傷は、押さえたハンカチを真紅に染めていた。
「ああ、さっき、猫に」
「こちらにいらっしゃい。猫の傷は痛むでしょう?」
 昔と変わらない古い家屋は、薄暗く、涼しい。
 傷の手当てをしながら祖母が言った。
「何処の猫でしょう。仕置きをしてやらなければ……」
「黒い奇麗な猫でしたよ。でも俺が悪いんです。知らない猫に構ったんだから」
 祖母が眉を顰めた。若い頃は美しかったと思わせる顔立ちの、特に目元の辺りを火村は受け継いでいる。祖母の顔を見る度に、火村は自分がこの家の血を受け継いでいることを思わずにいられなかった。
「それならきっと、有栖川さんの所の猫でしょう。まったく、あそこの猫は前にも……」
 祖母はそこまで言うと急に黙ってしまった。手当てが終わると立ち上がり部屋の障子を開けた。外からの風が気持ちよい。
 祖母が先ほどとは声色を変えて言った。
「淡雪を、作ったんですよ。英生さんお好きでしょう?」
「あ、ええ……」
 祖母は其のまま奥へと入っていった。
 火村は一度大きく息を吐き、後を追った。祖母は台所で真っ白な寒天菓子を赤い硝子の皿に盛っていた。
「あの、おじいさんは?」
「部屋にいますよ」
 祖父の部屋に行くと、祖父は縁側に腰をかけて庭を眺めていた。
「おじいさん。お久しぶりです」
 祖父は返事をせず、モゴモゴと口を動かしてにごった目でじっと外を見ている。
「おじいさん、英生です」
 火村は祖父の側に座って少々大きめな声で再び話しかけた。祖父はゆっくりと火村の方を向き、聞き取れないほど小さな声で何かを呟いた。それからまた、庭を見て、じっと動かなくなった。
「英生さん、こちらにいらっしゃいな。お茶の用意が出来ましたよ」
 火村は立ち上がって祖母のいる部屋に戻った。
「彰生はどないしてます?」
 麦茶を差し出しながら祖母が聞いた。口には出さないが、あまり実家に近づきたがらない息子を祖母が心配していることを火村は良く知っている。
「元気ですよ、義母とも仲良くやっています」
「……そう」
 火村の父は半年程前に十五も歳の離れた女と再婚した。火村と義母とは七つしか歳が離れていない。火村はやたらと世話を焼きたがる若い母親から逃げ出して、夏期休暇はこの家で過ごすことにした。
 若く、美しい義母。父が仕事に出ている間、彼女は火村の部屋にやってくる。それとなく火村が拒否しても知らぬ顔で、火村に触れようとしてくる。部活に入り、朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅し、休日は図書館で過ごすのが火村の毎日だった。高校さえ卒業してしまえば、あの家を出ることができる。あと一年、それだけ我慢すればいい。
 壁に掛けてある古い時計が二度鳴った。祖母は火村が淡雪をあっという間に平らげたのを見て、まだ火村が昼食を食べていないことに気がついた。
「もう二時ですのね。お腹空いたでしょう。私ときたら、本当に気が利かなくて……ごめんなさいね」
「いえ」
「吉原さんが英生さんが来るって聞いて、散らし寿司を持ってきてくれはったんですよ。いただきましょうか」
 席を立った祖母は、後でお礼ついでに御挨拶に行って下さいね、といって台所に入っていった。火村が外に目を向けると、先程祖父の部屋から見えていた凌霄花の花が咲いているのが見えた。


 翌日、散らし寿司のお礼に言った帰り道に火村は、少し散歩でもと思い竹林へと続く小道に入った。
背の高い竹の間から零れ落ちてくる夏の強い陽射しが雪のように舞っている。遠くで子供が隠し鬼をしている声が聞こえてきた。何処だろうかと見回したが姿は見えず、ただ鬼の呼び声とその声に答える声だけが響いている。
 其のまま歩いていくとやがて板壁で囲まれた屋敷の前に出た。大きな家だが奇妙な静けさに包まれている。塀の外まで枝を伸ばした屋敷林が塀と門とを圧倒していた。道はここで終わっているので、火村は引き返そうとして門の前に猫がいるのに気づいた。昨日の猫だ。
 火村は古びた門の表札を見た。有栖川、と書いてある。祖母の言っていたのは当たっていたらしい。
「チェシャ」
 突然板垣の向こうから声がした。黒猫がぴくりと耳を動かした。チェシャというのはこの猫の名前だろうか?
「チェシャ」
 再び声がして、通用門が開き、中から紺色の浴衣を着た少年が顔を出した。駆け寄った猫を抱き上げると、少年は火村を見た。一瞬の間をおいて、火村は少年に向かって話し掛けた。
「君の猫?」
 少年は黙って頷いた。茶色い髪がさらさらと音を立てるように揺れた。
「いい猫だな、チェシャって名前なのか?」
「そうや。君はこの辺の人やないね?こんなところで何をしてるん?」
 背は高いが、声はまだ幼さを残している。火村は少年の方に近寄ると、少年の腕の中でおとなしくしているチェシャの頭を撫でた。
「散歩をしていたんだ。行き止まりだから引き返そうと思ったら、彼がいたから。昨日は坂の下で会ったんだ」
 少年は、猫を撫でるひむらの手首に巻かれた包帯に目を留めた。
「それ、チェシャがやったんか?」
「え?あ、ああ。でも俺が構ったのが悪かったから」
 少年は申し訳なさそうに目を伏せると
「前にも同じコトをしたんだ」
 と言って火村を中へと促した。
 その少年は、有栖川有栖と名乗った。年下だとばかり思っていたが、火村と同い年だった。
「変な名前やろう?」
「そうか?悪くないぜ?」
 火村が表門だと思ったのは裏門だったらしい。門を潜り屋敷林を抜けると、思っていた以上に広い庭には赤い小さな橋の架かった池があり、橋の向こうには母屋らしい建物がある。小さな滝口の側に雪見灯篭があり、折りまわした庭には躑躅や満天星が植え込まれている。手入れの行き届いた洗練されたつくりの庭だが何処か陰気な感じがするのは古く巨大な桂が重々しい感じを与え、庭に影を落としているためだろう。橋を渡るとき、火村は何かが足元をすうっと通った気がした。足を止め、水の中を見やる。再び黒い影が走った。
「魚がいるな。鯉か?」
「うん」
「名前あるのか?」
「……英彰」
 火村は急に声色の変わった有栖を見た。その時になって、火村は初めて有栖の容姿に気がついた。驚くほど色が白く、硝子玉のように見える大きな目をしている。火村は有栖が目を細め、赤い唇の端をわずかに上げて微笑むのを見た。浴衣の襟元から見える首は陶器で出来ているかのような硬質な印象を与え、袖から覗く手首の細さは強く握れば折れてしまいそうだ。
 消して女性的な印象は無いのに、奇妙なまでの色気がある。見つめ続ければ戻ることが出来なくなりそうだ……。火村は何か言葉を発しようとしたが、うまくいかなかった。
 頭にもやがかかっている。無性に煙草が吸いたかった。
「こっちや」
 有栖の部屋は庭に面した座敷部屋で、部屋の書院は雲形窓、板に上弦の月と鳥を小さく透かし彫りにしてある。その下には不釣合いなたくさんの本が所狭しと積み上げられていた。壁には大きな本棚が作りつけられ、収まりきらない本が床にも積み上げられている。
「すごいな」
 タイトルを見ると、ほとんどが推理小説のようだ。小説だけでなく評論もちらほら混じっている。
「推理小説がすきなのか?」
「うん。君は?推理小説読む?」
 期待に満ちた目で見られて火村は少し苦笑して答えた。
「全然読まないわけじゃないけど、ほとんど読まないな。むしろノンフィクションに興味がある。」
「そうかあ……」
 心底残念そうにそういった有栖が、あんまりガッカリしているからついかわいそうになってしまって、火村は側にあった本を手に取った。
「これ、面白いのか?」
 随分と読み込んでいるらしいその本は、外国の有名な作家の本だった。表紙がボロボロになってしまっている。
「うんッ、めっちゃおもろいで。俺、小説家になりたいねん。その作家みたいな」
 にっこりと笑って言う有栖の顔は、さっき庭先で見たような不思議な笑みではなく、もっと生命力のある、輝くような笑顔だった。こんな笑顔もできるんだ、と火村は少し安心した。
「じゃあ、これ借りてもいいか?」
「ええでっ、持ってって。感想聞かせてな」
 本に囲まれた部屋の中に二人で座る。ふと目を向けると、窓の外に凌霄花が咲いていた。ここの庭には似合わない。これだけ手を入れてある庭なのに……と火村は少し不思議に思った。
 有栖は推理小説以外のことにもいろいろ興味を持っているらしく、その雑学量に火村は舌を巻いてしまう。打てば響くような会話は、火村にとっては新鮮で、とても居心地の良いものだった。
 ふと火村が文机に目を落とすと、書きかけの原稿用紙が置いてある。
「これ、有栖が書いたのか?」
「あ……うん……」
 見ていいか?と聞いてから火村は積んである原稿に目を通す。それはいわゆる本格推理と呼ばれる密室物で、文章はまだ稚拙だがなかなか面白かった。
「続きは?」
「あ、まだ書きかけなんや」
「出来たら読ませろよ」
「うんっ」
 話題は尽きることがなく、気がつけば明るかった外はすっかり暗くなってしまっていた。
「なあ、火村、君、海を見たことある?」
 火村が帰るとき、有栖が池の淵で空を見上げて言った。すっかりと日が暮れた夜空は月に照らされ、明るい群青色をしている。月にかかった薄い雲が青白く浮き上がっていた。火村は同じように空を見上げた。
「あるよ」
 有栖は灯篭の明かりを消した。辺りの闇が濃くなる。
「俺は無い。たぶん、これからも」
「どうして?」
 有栖がゆっくりと振り向いた。闇の中で有栖の白い肌が夜空の雲のように浮き上がって見える。
「俺はこの家から離れられへん」
 火村は有栖のうつむいた細い首を見ていた。有栖は少々痩せ気味だが、中でも首は病的なまでに細かった。有栖は池の淵にしゃがみ込み、暗い水の中を覗き込んだ。
「海の魚も、川の魚も、みんな自由に泳ぎまわれる。でも、池の魚はどこにもいけへんのや」
 有栖は自嘲気味に言うと、細い指を水に浸した。火村も池を覗き込む。あまりに暗い水の色に、ふと、有栖が吸い込まれるのではないかと心配になる。有栖の肩に手を掛けて、そっと引き寄せた。
「なあ、海の青い色は空の色が写っている色なんやて。だから、夜の海は真っ黒なんや。まるでインクが流れて染めていくみたいに」
 暗い水の中で紅の魚が泳いでいる。池が写す月の影を魚が壊すのを二人は見つめた。
 暗くて歩けないから、と竹林の中の道を時代遅れな提灯を持って有栖が送ってくれる。その後を、チェシャが付いてくる。かさかさと鳴る笹の葉の音に混じって、有栖の柔らかなテノールが火村に語りかけてくる。
 まだ足りない。もっと話していたい。
 火村がそっと有栖を伺うと、有栖も火村を見ていた。にっこりと笑って、そっと火村の手を取った。水から引き上げたばかりのような、冷たい手だった。無言のまま、出口まで歩く。
「じゃあな」
「うん……またきてや」
「ああ、小説の続きも気になるし」
 有栖の玲瓏な瞳に提灯の焔が点り、焔が揺れるたびに瞳に映る影が変化していく。火村は引き込まれるように見つめた。一瞬、有栖の長い睫が焔を消す。火村ははっと我に返り有栖の顔を見た。
「きっと、またきてや」
 火村は竹林に続く道に消えていった後姿をじっと見続けた。

「ええ……いえ、そういうわけでは……いや、夏期休暇中はこちらで過ごすつもりです」
 火村が祖父の家で過ごすようになり、たびたび義母から電話が掛かってきた。いつ帰ってくるのか、あまり長居をしては御迷惑だ、と同じことを繰り返す。火村がなかなか帰るといわないので、挙句には何か帰れない事情でもあるのか、それとも帰りたくない事情でもあるのか、と訴えてくる。
「はい……わかっています。はい、では」
 火村は別に父親の再婚に反対するつもりは無かったし、十七にもなれば、今更新しい母親を求める気にはならない。火村は飽くまでも父の新しい妻として接するつもりだったのだ。しかし、義母は母でも妻でもなく、一人の女だった。夫である父よりも、自分に興味を示す女。厭わしい、と思わずにはいられない。どうして、父はいつもこういう女を選ぶのだろう。不義を働く女に惹かれるのは父の業なのだろうか。
 いつまでも他人行儀に話す火村と、必要以上になれなれしくする義母。もはや火村には義母との関係を修復するつもりは毛頭なく、関係は日を追うごとに歪んでいく。
 部屋に戻ろうとして、祖母とすれ違う。
「あちらで何かありました?」
「いえ。何もないんですけど……ちょっと、義母が……」
 火村が言いにくそうにしているのをみて、祖母が苦笑した。
「英生さんが居たいだけここにいてくれてええのよ?ここにはおじいさんと私しかおらへんし、英生さんがいてくれたほうが寂しくて無くてええの。おじいさんはあの調子でしょ、英生さんがいると、私も嬉しいわ」
 何度もかかってくる電話から、祖母はなんとなく火村がうちに戻りたくないと思っていることに気付いているのだろう。幼い頃のように無邪気に懐くことは今の火村には出来ないが、それでも迷惑ではない、と言ってくれる祖母の心遣いは有難かった。
「ありがとうごさいます。あの……なら、御言葉に甘えて夏期休暇が終わるまでここにいてもいいですか?」
 珍しく、火村からのお願いに祖母が微笑む。
「もちろんですよ。ここは英生さんのように若い人にはつまらないところやけど、なんやったら休暇が終わってもここで暮らしてくれてかまへんのよ?」
 冗談めかして言っているが、そこに祖母の本心が隠れていることを火村は知っていた。痴呆が進み、ほとんど口を利かない祖父と、ろくに娯楽も無いこの土地で毎日を過ごしている祖母。こんなことなら、もっと頻繁にここに来ればよかったかもしれない。無愛想な自分でも、いれば少しは違うだろうに。
 そして何より、ここには有栖がいる。もっと早くに有栖と出会っていたら、火村の日常はもっと違っていただろう。できることなら本当に、夏期休暇の後もここに残って有栖と共に過ごして居たかった。
 有栖と過ごす時間は楽しい。毎日取り留めの無いことを話し、笑い合い、有栖の書いた小説を読む。無邪気な顔で笑う有栖。そして時折見せる、あの妖しげな表情。火村は日毎有栖に惹かれていく自分を自覚していた。


 雨が降っている。
 音もなく霧のように煙る雨は、傘を差していても自然と服をじっとりと湿らせる。風もなく湿度も高い。
 雨が降る日はいつも頭が痛くなる。火村はいつも理性的でありたいと思っているし、事実、火村は同じ年頃の少年たちに比べればはるかに理性的だろう。だが、雨が降ると少しだけ(ほんの少しだけだが)その極めて堅強な意志が弱まる。頭が何かを考えることを放棄しようとするのだ。
 湿度が上がり気圧が下がると頭痛がするので、火村は直ぐに雨が降るのがわかる。雨が降ると憂鬱になる。頭が、痛む。
 頭痛がするようになったのはいつからだったろう。随分と幼い頃だった気がする……
 屋敷へと続く竹林は霧雨で霞み、細い道のあちこちに水溜りが出来ている。いつものように裏門からするりと中に入り、直接有栖の部屋に行く。
「有栖」
 外から声を掛けると、文机に向かっていた有栖が振り返る。火村は縁台に上がると靴を濡らさないように縁台の下に入れた。
「なんや、君今日機嫌悪そうやな」
 膝立ちで側に寄ってきた有栖が、火村の肩に背後からもたれ掛かって顔を覗き込んだ。もともと愛想の良い方ではないが、いつもより眉が寄せられてなんだか怒っているように見えた。
「いや……頭痛がするんだ。雨の日は駄目だな……」
 そうなん?と有栖が火村の眉間に指を当てる。
「皺」
 火村は苦笑して有栖の指をつかんで外させた。
「皺はな、癖になんねんて。もったいない、男前なのに。その歳でストイックかもし出してもしゃあないやん」
 別にストイックにしてるつもりじゃねえけどさ。火村はニヤリと笑って有栖の指をぎゅッと握る。
「男前か?なに?お前この顔好きなの?」
「……」
 有栖がじっと火村の顔を見つめた。火村が目を逸らせなくなるあの瞳の色で。僅かな動揺と、不可思議な感情が火村の中に生まれる。
「好きやで……」
 ゆっくりと、有栖の指をつかんだままの火村の手を口元に寄せる。わずかに開いた唇で、そっとついばむ。
「……有栖?」
 指から唇を離し、耳元で小さく囁いた。
「好きや」
「……」
 胡坐をかいた火村の膝に猫のように滑り込み、唇を重ねる。火村が唇を開くとするりと有栖の舌が潜り込む。
 湿った音を立てて有栖は顔を離し、火村のシャツのボタンを外す。はだけた胸をそっと指先でなぞられると、火村はぞくりと何かが背中を走るのを感じた。
 頭痛がする……思考が、うまくまとまらなくない。
 視線を下げると、膝立ちで歩いたせいか有栖の浴衣のあわせが乱れている。足の内側の白さが薄暗い部屋の中で浮き上がるようだ。火村はそこに触れたいと思った。白く、柔らかそうな……有栖の……
 頭が痛い。
 理性が、うまく働かない……
 徐々に理性を侵食していく……
 何が?……
 本能が……
 有栖が火村の頬を両手で挟み、顔を上げさせ、深く口付ける。せわしなく動く指先が、火村のシャツを脱がせていく。
 糸を引きながら離れた唇が、喉を辿り、胸の突起を銜えた。舌でざらりと舐めあげると、火村は小さく息をついた。
「有栖……」
 火村が有栖の内腿に指を這わせると、有栖がピクリと肩を揺らした。火村は帯を解いて、有栖の浴衣を開く。
 驚くほど白い肌が現れる。一度として陽の光に触れたことが無いのではないかというほど、陶器の様に白い肌だ。壊れ物を扱うように、火村はそっと有栖の肌に触れた。
 ……柔らかい、肌……
 雨で湿ったズボンを脱ぎ、裸で抱き合う。湿り気を帯びた肌は吸い付くように互いの肌になじむ。
「ああ……ひ……むら……」
 頭に直接響くような有栖の声。
 頭が痛い……考えが、追いつかない……理性が……本能が……蝕み、蝕まれる……
「有栖……有栖……」
 既に形を変え始めた火村のモノを、有栖がいとおしげに指で包む。身体をずらすと、有栖は火村のソレを自らの口に取り込んだ。
「やめ……有栖……駄……目だ」
 舌と唇とで丁寧に愛撫する。火村は自分のモノを含む有栖の髪に指を絡め、髪を引っ張った。有栖は銜えきれない部分を舌でなぞり、雫をこぼし始めた先端に軽く歯を当てた。
「は……ぁ……あ、有栖……」
 火村は有栖の髪をぎゅッと握ると、有栖の口内に若い精を吐き出した。
「んん……」
「はぁ……あ……わ、るい」
 艶然と笑って有栖は再び火村の腰にまたがった。
 ……俺を、愛して、火村……
 横になった火村の上で、唇を震わせながら、有栖が腰を振る。火村のモノをくわえ込んだ部分は、淫猥な音を立てながらも貪欲に火村を取り込もうとする。
 有栖がなかなか自分に触れようとしない火村に焦れて自分のモノに触れようとすると、火村は有栖の両手を浴衣の帯で縛り上げた。
「俺に、やらせてくれよ……」
 縛られた両手を火村の胸に付き、何度も身体を上下させる。早く触ってくれと、懇願するように火村のモノを締め付ける。
「ああ……火村……ひ……む……」
 火村が腰を突き上げるように動かすと、有栖の蕾はもっともっとと収縮し、奥へと取り込もうと蠢く。熱く絡みつくような内部に、火村は眉を寄せた。
 あれほどひどかった頭痛は、今は少しも感じなかった。脳髄が麻痺しているみたいに。ただ、感じるのは、有栖の熱さと、狭さと、頭に響く有栖の少しかすれた喘ぎ声……
 いつの間にか雨が激しくなっている。バラバラと軒を打ち付ける雨音が、二人の息遣いをかき消そうとする。
 有栖の白い頬が紅潮している。髪が額に張り付き、滲んだ汗がこめかみから流れ、顎を伝って火村の胸に堕ちる。
 自分を銜えている部分を指でなぞってやると、有栖がビクリと動きを止めた。目いっぱい広げられた襞を爪で優しく擦ってやると、有栖の熱い内部がギュウギュウと火村を締め付ける。まるで、火村の形を確かめているかのような動きに、火村は満足気に息をつく。
 空いている手で有栖の前をつかみ、我慢できない先走りをとめどなくこぼしている先端を親指の腹で何度も擦ってやると、有栖は鼻にかかった悲鳴を上げながら再び腰を動かし始めた。
 貪欲に、火村を貪る。火村の形を感じる。火村の熱に翻弄される。有栖は苦しげに眉をゆがめながら、唇だけで笑う。
 火村の手のひらが有栖の腹を撫で、身体をのぼる。激しく上下する胸の突起を親指で押しつぶすように弄ると、有栖が堪らな気に目を閉じた。薄く開いた唇がひどく色っぽい。火村は何度も腰を突き上げて、有栖を揺らしながら胸の紅い飾りを爪でつねり上げた。
「あッ……ひぃッ……あ……」
 有栖は衝撃で背中をそらせながら、火村の胸に白濁を撒き散らした。
「うっく……」
 有栖の内部が今までに無いほどに火村を締め付け、火村は有栖の中に再び熱を吐き出した。
 

 火村が有栖の家に通うようになり一ヶ月が過ぎた頃、火村は出かけようとしたところを祖母に呼び止められた。吊り下げられた風鈴が、涼やかな音を立てる。少々風があるようだ。橙色の凌霄花が揺れている。
「英生さん、今日もお出かけ?」
「……友達が出来たので」
 祖母が菖蒲を生けながら火村の顔を見た。
「まあ、それは良かったこと。でも、この辺に英生さんと同じ年頃の方がいましたかしら?」
 ぱちり、と鋏が菖蒲の茎を切りそろえる。
「竹林の先に、有栖川という家があるでしょう。あそこに……」
 火村は祖母が見事に咲き誇った菖蒲に花を切り落とすのを見て、口を閉じた。
「英生さん。あの家には近づかないでくださいな」
 心なしか、祖母の口調が震えている。
「何故ですか?」
「……あの家は……良くないのです」
「何がです?」
「……」
 火村は無言で立ち上がると其のまま玄関へと向かった。
 あの家に何かあるというのであれば、はっきり言えばいい。行くか行かないかは自分で決める。
 庭に面した廊下を荒々しく歩いていると、祖父がいつものように縁側に座っていた。火村は歩調を緩め、静かにその後を通ろうとした。
「……」
「え?」
 火村は振り返って祖父を見た。今、英彰、と呼んだ気がした。祖父は真っ直ぐに庭の凌霄花が揺れるのを見ている。
「何か、おっしゃいましたか?」
 無駄だろうと思いながら、火村は祖父に話しかけた。案の定、何も答えは無い。火村が再び玄関に向かおうとしたとき、祖父が口を開いた。
「あの家には、猫がいるからだよ、英彰」
 祖父は火村を、英彰という人物と間違えているようだった。
「猫、ですか?チェシャという猫がいますね」
 火村がそう答えると祖父は首を老人らしい硬い動きで振って言った。
「猫は、いかん。魚を獲る」
「でも、チェシャは魚を獲ったりしませんよ」
 火村はこの家に来て初めてまともに祖父と口を利いたことを思い出し、できるだけゆっくりと穏やかに話すように心がけた。
「英彰。いつ帰ってくるんだね?」
「夕方には戻りますよ」
 祖父は「そうか」と言ってまた動かなくなった。

  九月、火村の夏期休暇もそろそろ終りに近づいてきた。三葉木通の実が薄紫から濃い紫へと色づいていく。じきに、口を開くだろう。秋の気配が現れ始めたのだ。
 火村が有栖を訪れると、彼は池の淵で鯉に餌をやっていた。
「有栖」
 火村がやってきたのに気付くと有栖は静かに微笑んだ。
「火村、ほら、見てや。英彰もすっかり君に慣れた」
 火村が池に近づくと、美しい鯉が寄ってきた。紅の背中が水面に線を描く。
「英彰……」
 火村はその名を口にして、以前祖父が言っていた名前を思い出した。あれは一体誰のことなのだろう。
 ふと火村の耳にレコオドの音が聞こえた。周りを見回すと、有栖が縁台に腰掛けている。
有栖の部屋には古いレコオド・プレイヤーがある。今聞こえているのはラヴェルのボレロ。有栖はクラシックを好んで聴く。それも、マーラーやブラームスのような重厚な曲が多い。
 火村は池の中の魚が動くのを見ていた。徐々にクレシェンドする曲に合わせて、池の中の魚たちが泳いでいるようにも見える。フォルテッシモのシンバルに合わせ、魚が激しく揺れ動いた。
 やがて、レコオドが終った。耳の中にまだ響いているオーケストラの響き。火村はじっと池の中を見つめていた。
「魚にも、音って聞こえているのか?」
 有栖は首を軽く傾けて笑った。まだ強い日差しが有栖の上に濃い影を落としている。暗い日陰でも有栖の肌が白いのが良くわかった。
「響きやないかなぁ?よう、知らんなぁ」
「ああ……水が揺れるのか……」
 火村は有栖の隣に腰を掛けた。有栖の膝には原稿用紙が乗っている。火村が手を出すと、有栖が笑って原稿用紙の束を渡した。
「誤字がある」
 ニヤリと唇を歪めた火村を有栖が小突く。
「意地の悪い笑い方すんなや。どこ?」
 火村が読んでいる原稿を覗き込む。火村は、鼻先にある有栖の茶色い頭に頭を乗せた。
「おい、重いで」
「今は俺が読んでるんだ。後でまとめて教えてやるから邪魔すんなよ」
 くすくすと笑いながら有栖が火村の膝に頭を乗せた。九月に入っても気温はまだ高く蒸し暑いが、火村は有栖をどかそうとはしなかった。
「俺の小説やで。読むんやったら原稿料とらなあかんな」
「ばぁか、だったら俺は校正料取らなくちゃならねえだろう」
 有栖の浴衣の胸元が、少し乱れている。まるで子供のような顔をしているくせに、有栖は時折妙に色っぽい。火村は意図的に有栖の胸元から視線を外し、原稿を読むことに集中する。
「なあ、火村」
 有栖が火村の腹に抱きついて言う。
「ん?」
「だいぶ書き上がってきたやろ?来月までには書き上げるで」
「……」
 火村は読みかけの原稿を脇において、有栖の髪を撫でた。
「火村?」
 有栖は起き上がって火村の顔を覗き込んだ。火村は困ったように目を伏せて、黒ずんだ木の縁台を見ていた。
「ちゃんと読んでくれるやろ?」
 火村は、以前チェシャに傷つけられた手首がうずくのを感じていた。
「無理だ。俺、もう帰らなくちゃいけない。学校が、始まる」
 既に傷は治り、薄く跡が残っているだけの手首をそっと押さえた。
「どうして?学校なんて行かなくッたってええやないか」
 少し怒ったように有栖が言った。
 火村は有栖の口から学校についての話が出たことが無いことに、今更気付いた。夏期休暇とはいえ、有栖の家に友達らしい人が来たところも見たことが無い。
「有栖……お前、学校には行ってないのか?」
 無言の返答は肯定を意味していた。
 有栖は立ち上がると家の淵まで行き、しゃがみこんで池の中に手を入れた。水面が波立つ。
「行ったら駄目や。ここにいてや」
 低く小さく有栖がつぶやく。
「無茶言うなよ」
 手首の傷跡がいっそう激しくうずいた。火村は手首に目を落とした。さっきまではただの線に過ぎなかった傷跡が赤く腫れていた。
「帰っちゃ、いやや」
 有栖は足元によってきたチェシャを抱き上げて振り向いた。何を考えているのかわからない、表情。
 また、あの目だ……
 火村は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
「何処にも行かんといてや……君は、ここで、俺と一緒におるんや」
「有栖……」
 有栖の後の池の中で、英彰がぱしゃんと水音を立てた。
 有栖の腕の中からチェシャが飛び降りた。火村は有栖がゆっくりと自分の方に近づいてくるのを見ていた。静かに伸びてくる白い手。冷たい手が火村の頬に触れる。有栖は目を細めて笑った。手首の痛みが激しくなったが、火村はその痛みが自分の物ではないような気がしていた。どこかでチェシャが鳴いているのが聞こえた。
「有栖……」
「此処に……おって……」
 ゆっくりと、有栖の両手が火村の首に巻きつく。そっと抱きしめる。細い身体。
 有栖が火村の唇に自分の唇を寄せた。触れるだけの接吻が徐々に深くなる。絡み合い、唇の端から唾液がこぼれるほどに深い口付け。
 火村は、うっとりと有栖との口付けに酔った。


 祖母は、庭先にある三葉木通がぱっくりと口を開いているのを見つけた。縁側にいる祖父に向かって話しかける。
「もう夏も終りですねえ」
「英彰は、いつ帰ってくる」
 短くため息を吐いた祖母は、祖父の隣に腰を下ろした。
「あの子がいなくなって、もう十年も経ったじゃありませんか」
「子供がおった」
 祖母は祖父の手をとり、一言づつ区切るように話した。
「あれは、英生さんですよ。英彰の弟です」
 夕刻の風が風鈴を揺らした。涼しげな音が響く。凌霄花の花がぽとりと落ちた。
「そろそろ、帰って来る頃ですね」
 祖母は十年前に姿を消した孫息子の好物でもこしらえようかと台所に向かった。


 有栖は池の淵で紙を燃やしている。燃え残らないように、丹念に木の枝で紙の束をかき混ぜる。徐々に侵食していく焔。枝でつつくと、うっすらと残る升目と文字の跡がボロボロと崩れていく。
 少し離れた場所で、チェシャが池の中を覗いていた。暗い池の中を泳ぐ二匹の紅い魚。時折寄り添うように泳ぐ。有栖は燃え尽きた灰を手で掬い、池の中に落とした。

 

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